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 ご覧いただきありがとうございます。
近時、手の不自由が増してきて、不満足な絵が多くなりました。
絵に対する姿勢をより自由にしたいと考えています。
出来上がった絵を掲載するので更新は不定期になろうかと思います。
ご了承ください。
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旧海軍司令部壕 [水彩とパステル]

          私事となりますが、亡き父は復員兵で、兄一人はマリアナ諸島で戦死しました。

          父は、生前、戦争について一切を語りませんでした。兄の戦死は、当然、遺骨もなく

          小さな桐箱に入った勲章が証として残るのみです。

          私自身は、戦中の絶望的状況の時期に生まれ、現在に至りました。

          たら、れば、の話ですが、兄が生きていれば自分の人生は

          どのようになったのだろうと考えることがあります。

          

          日本中の多くの人が、似たような経験、体験をされていると思います。

          大岡昇平の「俘虜記」、「野火」、「レイテ戦記」などを読み、戦地の凄惨な

          有様を知りました。

          広島、長崎の原爆資料館、東京大空襲の資料を江戸東京博物館を訪ね、

          深い戦争の傷跡を見てきました。

 

          次は、沖縄戦の戦跡をたどること。

          自分に課せられた義務のように考えていました。

          今回、沖縄本島南部の戦跡をめぐり、ほんの一部を知っていただきたいと

          この記事を掲載しました。

          

          絵は掲載しますが、正直言って、絵になりませんでした。

          下手な挿絵と見ていただければと思っています。

    img146.jpg

    3号の紙に水彩で下地をつくり、乾いた後にパステルで描画 

 

          1944年、日本海軍設営隊によって掘られた司令部壕で

          当時は450メートルあったといわれている

          かまぼこ型に掘りぬいた横穴を

          コンクリートと杭木で固め

          米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための

          地下陣地で4,000人の兵士が収容されていた

          

          夜はみんな、杖を持って歩いた。死体を踏まないためだった。

         

          戦後、しばらく放置されていたが

          数回にわたる遺骨収集の後

          1970年3月、観光開発事業団によって

          司令官室を中心に300メートルが復元された

 

 

          沖縄戦による戦没者数    200,656 名

          うち、沖縄県民の犠牲者は12万人以上と推定されている

 

          1945年4月、沖縄本島中部西海岸に米国軍が上陸、グアム島から

          55万人の大艦隊を発進した。日本軍の兵力は現地召集の防衛隊と

          学徒隊2万人余を加えても約10万人であった。

          3ヶ月に及ぶ戦闘は多数の住民を巻き込んでおこなわれ、6月23日、

          牛島総司令官は最期まで戦えと命じて自決。

    img148.jpg

    海軍壕・司令官室                                 4号・透明水彩

          

          壁面には、「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」

          という 大田 實 壕・司令官の愛唱歌が残されている

 

          空気穴もなく、食糧、水、医薬品もなきに等しい中

          兵士たちは、当時、どんな思いでこの場所にいたのか

          立って寝るしかなかったという

 

          凄惨の極みだったと想像する

          何人かの観光客と共に歩きながらも

          土の中から悲痛なうめき声が聞こえてくるようだった

 

     最後までお読みいただいて、ありがとうございました。

     次回は、息抜きを入れます。

 

 

 

       

     

          


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