東京郊外・雪景色 [油絵]
自宅2階から 8号
昨日、東京では朝から雪が降り続いた
見る見る銀世界に変わって行く
都心も、2~3センチの積雪と報道している
同時に交通機関への影響も報道される
この絵は、十数年前の景色である
今、窓から見ても
当時と同じ景色があった
近くの大地主が所有する土地の先には
好天であれば
遠くに、奥多摩連山が
さらに遠くに富士山が見える
何年経っても
大都会は、自然災害に弱い
これで、大きな地震でも起きたらと
不安が増幅する
模写:モネ・「アルゲントゥールの歩道橋」 [油絵]
私の模写・習作 4号
モネは、私にとって
国立西洋美術館で彼の絵を始めて見て以来
神のような存在となっている
光り輝く絵を描きたい
幾度となく、画集、絵葉書を見て
模写を試みた
今回掲載分は、お手本が見つからない
比較できないことをお許し願いたい
彼、モネは、忠実な写実を基にした伝統的な絵を描いていたが
1873年、若手画家グループの第1回展が開かれ
従来の伝統的絵画を突き破るような絵を出品した
「印象・日の出」 絵の模写・習作 6号
画集よりハードコピー
以後、このグループは、印象派と呼ばれた
マネ、モネ、ルノアール、ピサロ、シスレーらが代表的画家
形式美を排し
対象の個性的特徴を表現することを目標とした
その結果
物体には固有の色はなく
光線によって絶えず変化する色を
大気と共にある瞬間にとらえねばならぬこと
影は、暗黒ではなく微妙な色彩があることなどを主張した
多摩山地の秋景色 [油絵]
やがて15年も前になろうか、東京都の西、JR「奥多摩駅」で降り、独り、山歩きをしていて出会った景色。今、その場所へ行けと言われれば、捜すのに苦労するだろう。
奥多摩の雑木紅葉 サムホール
一頃、取り付かれたように奥多摩地方の低山を歩き回っていた。四季折々の自然を楽しみながら歩いていた。その時期に出会った風景のひとつ。切り開かれた斜面に、小さな池があり、光と周りの色を映していた。スケッチして持ち帰り、小さな作品にした。一人で歩く山道で出会った感動を伝える相手のいない寂しさが絵に現れてしまった感じがする。
(口直し、ではなく目直し?)
窓際のシクラメン(淡彩スケッチ) 3号
上高地・「嘉門次小屋」 [油絵]
先日、横浜に住む次男からメールが届き、添付があった。何だろうと、開けたところ15年以上も前に二人で旅した上高地の「嘉門次小屋」の油絵の映像があった。「ブログに掲載したら」と本文にあった。
真夏の絵を、この時期に載せるかどうか少し迷ったが、紅葉シリーズの間に割り込ませてもらった。(親馬鹿とお笑いを・・・)
明神池へつづく小橋より「嘉門次小屋」を望む 10号
以前、ブログ上で何回か上高地の記事を掲載してきたが、この嘉門次小屋の絵の存在をすっかり忘れていた。次男が独立して家を出るとき、親父の絵が欲しいと言われ、嬉しくなり、二人の思い出の詰まったこの絵を渡した。
旅したとき、この小屋の直ぐ近くに宿を取り、好天に恵まれた上高地を堪能した。
河童橋付近より穂高・吊り尾根を望む 10号
大正池の遊歩道より「焼岳」を望む 8号
当時、多感な高校生の息子と、日常、顔を会わすことすら少なかった企業戦士(?)の父。無理やり引っ張り出した旅であって、会話は、当然ながら弾むことはなかった。どんな気持ちでついてきたのだろう、いまだに、確かめきれないでいる。ひとつ、大切なこと「我が子が当時、車に弱い傾向にあった」、ということを念頭においていなかった。言い出したら、突っ走る親に、ただ寡黙を決め込んでいたのかも・・・、自戒の多い旅でもあった。
美しい景観に酔いしれて、大切な息子の心を読めなかった情けない親父の、ほろ苦い思い出である。
(追記) 「上條 嘉門次」は、明治の頃、明神に小屋を建て、岩魚や熊を獲って生活し、穂高の名案内人として知られていた。W・ウエストンと出会い、穂高登頂を成功させた。
セザンヌ「静物」:模写 [油絵]
昨日に続き、セザンヌの静物の模写。
セザンヌ「静物」の模写 4号
申し訳ないが、この絵の手本を捜したが見つからなかった。小生が持っている画集は、新潮美術文庫とアサヒグラフ別冊美術特集の「セザンヌ」があり、大部分はこれを手本としていたが、その中には無いことが判明。他に「モネ」の模写した絵もあり、その方を確認してみると、やはり手本の見つからないものがあった。何処かに、隠れていて見つからない手本がある。2週間ほど前から、そのことに気づき、出かけた際に、本屋をのぞいては手本の絵を捜したが見つからなかった。そのような訳で、手本となった絵を示すことが出来ないことをお詫びする。
小生自身は、この模写した絵が気に入って、時々、額に入れて楽しんでいる。セザンヌは、すべての対象物を等価値と見て、一般的な遠近法からはずれ、それぞれの対象物を個別に観て、セザンヌが一番気に入った視点から描き、画面上に配した。したがって、画面上にあるものがそれぞれ違った視点から描かれていることが多いといわれている。個別に見ると矛盾を含みながら、画面全体を見ると違和感のない見事な構成となっている。
7日、8日と外出し、休載を宣言していたが、7日早朝、8日夕方と、何とか間に合った。何処かで途切れることは分かってはいるが、可能な限り連続出場記録? を伸ばしたいと気負っているバカな私であります。家内から、PCオタクと指摘され、目を休めることを目的に着替えだけ持って家内と共に箱根の温泉へ出かけた。少し早い紅葉と温泉を満喫したのだが、近くの「ポーラ美術館」で「モネの特別展」「高山辰夫の特別展」があることを知り、家内も見たいというので、鑑賞して帰宅した。結局、最後で目を酷使してしまった。自戒が多い。
セザンヌ「花」:模写 [油絵]
セザンヌ「花」模写 ↑ 6号
セザンヌ画集よりスキャナーで転写 38.5×33cm
ポール・セザンヌ 1839-1906 、フランスの画家。印象派の画風を脱皮し、独自の芸術を確立した。対象を主観的に把握し、幾何学的形態に基づいて整理、抽象されて緊密に構成される。ゴーギャン、ゴッホやキュービスムなどのほか20世紀絵画に大きな影響を与え、<近代絵画の父>といわれる。 百科事典:マイペディアより抜粋
小生は、モネ、セザンヌの絵が好きだ。この巨匠たちの絵を何回か模写をした。どちらも困難な作業であったが、どちらかというとセザンヌの方が難しく感じた。独特の繊細な画面構成と線描にとても素人が手を出せないものを感じた。模写を試みたという表現の方がふさわしい。この模写も途中でギブアップしたもののひとつで、中でいささかマシなほう。彼は、素晴らしい水彩画も多く残している。水彩はさらに手も足も出なくなる。
葛飾北斎の「群鶏図」より [油絵]
1992年の大晦日のことであった。我が家では、貧弱な玄関を正月に迎えるに当たって多少の飾りを凝らす意味で、次なる干支の飾り物を置く習慣になっていた。ところが、酉の置物がどうしても見つからず(我が家はこのようなことが多すぎる)、苦肉の策? 絵を飾ることにして、見覚えのある北斎の画集を取り出し、「群鶏図」の中から1羽の頭部を、油絵にした。火事場の底力、30分で仕上げた。ペイントナイフだけ使って描いた。
北斎「群鶏図」よりの写し サムホール(22.7×15.8cm)
北斎画集「群鶏図」をスキャナーで転写。 さて、皆様、どれを写したでしょうか?
本日は、出かける予定ですが、早朝、時間がありましたので急きょ掲載いたしました。
モネ「梨と葡萄」:模写 [油絵]
以前、モネの「印象・日の出」の模写を掲載した。今回は、彼が1880年に制作した「梨と葡萄」。
この記事を掲載するに当たって、実のところ悩んでしまった。模写そのものは、1992年のものだが、今、比較してみると、模写の出来の悪さに愕然としてしまった。出来ることならば、手を加えたいところだが、厚塗りなので相当時間を必要としそうだ。残念ながら、今は、そんな余裕がない。結論は、「あるがままの自分の絵の履歴」で行こうと決め、恥を忍んで掲載する。
小生の模写 ↑ 6号
モネの画集よりスキャナーで転写 実物は、65×80cm
やはり実物は、色の押さえが利いていて、バラス良く、絵が渋く、落ち着いている。丹念に薄めに塗り重ね、結果として厚塗りとなってはいるが、絵肌の効果までの計算し尽くされたもの。見事というしかない。
実物の方に、薄く線の跡が見られるが、これは、小生が、最初に形を作るときのおおよその位置を確認する目安として鉛筆で引いたもの。自分の方を見ていると、当時の悪戦苦闘がよみがえってくる。絵の具を重ねれば重ねるほど実物とは遠ざかって行く。塗り重ねもこの辺が限界かと思い、打ち切ったと思う。
私事ですが、7日、8日と留守にします。2日間休ませていただきます。9日には再開するつもりでおりますので引き続きよろしくお願いします。
皇居外苑・「和田倉橋」と「東京銀行協会」 [油絵]
東京銀行協会の建物は、1916年日本人の設計士、松井貫太郎によって、ルネッサンス式赤レンガ造り2階建てで建造されたが、老朽化し、1995年、歴史的建造物の面影を配慮して外壁2面を残し高層ビルへと変貌した。
改築前の東京銀行協会 10号
「ゴールデンウイークに丸の内を描こう」というイベントがあり、イーゼル、キャンバス、絵の具他、道具をバッグにつめて、家族でピクニック気分で出掛けた。同好の士は多く東京駅丸の内口を出た途端、それらしき人たちが散らばっていた。以前よりこの建物が好きだったので、構図を決めるところから始めた。和田倉濠を渡り石垣の影から見ると、和風の橋と洋風の建物の対比が面白く、そこに陣取った。ビジネス関係の人たちは、家族サービスの人に変身し、人通りは思いのほか多かった。背後から見られている意識に最初は緊張したが、やがて描くことに夢中になっていった。
現在の東京銀行協会は下記のHPをご覧ください。
http://maskweb.jp/b_ginkoukyoukai_1_1.html
佐伯祐三「田端駅付近・1926年」:模写 [油絵]
佐伯祐三(1898-1928)は、大阪生まれの洋画家。1922年東京美術学校を卒業し、渡仏、ブラマンクに師事し、大きな影響を受ける。パリの裏町を粘りある暗い色彩で描いた。一旦帰国するが、再度渡仏。その後が制作の絶頂期とみられているが、同時に精神異常の極限状態に近づき、3月の連日雨の中での外での制作に病を発症して30年の短い生涯を終えた。400点を超える作品を残した。絶えずつきまとう死の影におびえつつ、それと競い合い、「生への証=自己確認」としての画業を執拗におし進めた壮絶な生涯だった。
以上は、1988年に開催された「没後60年記念・佐伯祐三展」の資料より抜粋。
田端駅付近:模写 ↑ 6号
田端駅付近(佐伯祐三画集より転写) 72.8×90.8cm
( 画集の絵をスキャナーで取り込んで掲載しました。)
同氏の死に近い頃の制作は、ゴッホに似たところがあり、いわゆる、天才と狂人の間を生きた人の絵として惹きつけられた。彼の絵を模写することによって、彼が絵に託したものが何なのかを問うつもりで描いた。小生としては思い出深い絵である。結局、彼の意図するところは、凡人の小生には分からなかった。ただ、彼の絵としては明るく、元気をもらえそうな作品で好きである。