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 ご覧いただきありがとうございます。
近時、手の不自由が増してきて、不満足な絵が多くなりました。
絵に対する姿勢をより自由にしたいと考えています。
出来上がった絵を掲載するので更新は不定期になろうかと思います。
ご了承ください。
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晩秋の奈良:15「東大寺」Ⅳ [淡彩スケッチ]

 

 国指定・重要文化財「二月堂」                       はがき大

 三月堂から東方の山を見ると、長い脚を持つ京の清水寺に似た建物がそびえたっていた。これが、あのお水取りで有名な二月堂か。仰ぎ拝するお堂もなかなか良い姿だ。

 三月堂の一段高い斜面に建つ舞台造りのお堂。3月に「修二会(しゅにえ)」・お水取りが開かれるので知られている。良弁僧正の高弟の実忠が天平勝宝4年(752)に建立したと伝わり、今の堂は寛文9年(1669)の再建である。  (山渓社・「歩く地図」奈良大和路より抜粋)

 「お水取り」:東大寺二月堂で3月1日から15日(本来は旧2月)間で行われる修二会中の行事。12日深夜〈御松明(おたいまつ)〉の行法とともに行われ、呪師以下練行衆が閼伽井(あかい)の聖水を汲んで仏前に供える。この水をいただけば病難を免れると信じられている。奈良では御水取がすめば春がくるという。   (マイペディアより)

 「閼伽」:(仏)貴賓または仏前に供えるもの。特に水をいう。またそれを入れる容器。閼伽井は、その水を汲む井。   (マイペディアより)

 次回は、舞台に上がる。

 

 

 

 

 


晩秋の奈良:14「東大寺」Ⅲ [淡彩スケッチ]

 段々と若草山方面へ向かっての上りとなってくる。次のスポットが見えてきた。

 国宝・三月堂(法華堂)                 はがき大

 この絵は、三月堂の南面間口で、西側奥行きのほうが長く、西側広場からは大仏殿が望める。

 幸い、柳に木の下に、鹿が遊びに来ていた。

 東大寺の前身・金鐘寺の「羂索堂」(けんさくどう)として天平18年(746)頃に建立された東大寺最古の建物。旧暦三月に法華会が開かれるので法華堂となり、三月堂と呼ばれるようになった。堂内には、不空羂索観音立像を中央に日光・月光菩薩像・四天王像等、の国宝・重文の仏像16体が安置されている。(山と渓谷社・歩く地図、奈良・大和路より抜粋)

 いよいよ、大仏殿を眼下に見下ろす「二月堂」へと向かう。

 

 

 

 

 


晩秋の奈良:13「東大寺」Ⅱ [淡彩スケッチ]

 大仏殿(金堂)は、何回か拝観しているので、鏡池の前を二月堂の方向へ向かって歩く。大仏殿が林の中、後方に見えなくなって、この辺りに東塔があったのかと思われるところは公園内、イチョウの葉が落ちて積もり、子供たち、そして、大人まで子供に帰っての歓声をあげて遊んでいた。

 

  落ち葉との戯れ                       4号

 この絵は、人をクロッキーでとらえ、別の紙に景色をスケッチして、後で合成し、1枚に収めたもの。出来の良くない絵だが、雰囲気を楽しんでいただければ嬉しい。

 しかし、遠い昔、僧が兵器を持ち、時の権力者と争った結果が、巨大な伽藍を焼失せしめたのかと思うと、何時まで経っても人の心の進歩のないことに悲しみを感ずるが、これが人の持った業をさらした結果かなとも考える。更なる欲を求めての争い、未来永劫に続くのだろう。無心に遊ぶ子供たちを見て、このまま育って行って欲しいと願うのみ。自分自身を振り返ってみても、雑念だらけ、残念ながら心の進歩というものがない。でも、これが生きる楽しみなのか?。 分からなくなってくる。

 

 

 


晩秋の奈良:12「東大寺」Ⅰ [淡彩スケッチ]

 「鏡池」から中門、大仏殿を望む              はがき大

 「大仏殿」が代表する天平の巨刹。華厳宗総本山。745年聖武天皇の勅願により良弁が別当となり、総国分寺として創建。本尊は、「毘盧遮那仏」で俗称奈良大仏。平安時代を通じて興福寺と並び日本仏教界の指導的位置にあった。その後、数次の兵火によって焼失するが、源頼朝の援助で復興、大仏殿は、間口が三分の二に縮小されたものの、江戸時代に再建された。世界最大の木造建築には変わりはない。創建当初は、東塔、西塔が七重であり、高さは、興福寺の五重塔の倍はあったと伝えられている。寺域は広く諸堂、礎石が散在する。

 東大寺HP     http://www.todaiji.or.jp/

    「大仏殿映りゐる水冬暖か」  広谷春彦

 


晩秋の奈良:11「唐招提寺」Ⅳ [淡彩スケッチ]

 入り口、南大門を通り抜け、西の松林の先に、金堂の姿を観て、まず、感動し、近寄ってつぶさに観て、またその美しさに衝撃を受け、この御寺の全容を見ないうちに、ずいぶん時間を費やした。

 いざ奥へと進む。反時計回りに歩き、国宝建造物の一つ一つを観て回る。「鼓楼」、「講堂」、「礼堂」、日本最古の校倉造の「経蔵」、「宝蔵」、そして鑑真和上坐像が安置される「御影堂」と進むうち、句碑が見えた。松尾芭蕉が「鑑真和上坐像」を拝し詠んだ句。

     「若葉して御目の雫拭はばや」

 森の中に静かに佇む伽藍に魅了され散策するうち、再び、金堂の姿が現れ、また魅了された。

 

 金堂西側の通路より                  3号

 松林の中に見事なもみぢがあり、その奥に、さらに見事な姿の金堂があった。後ろ髪を引かれる思いで、古刹を後にした。

  俳 「松の葉に名残のもみぢ招提寺」   よしあき

   次回より、「東大寺」へと移ります。

 

 

 

 

 

 


晩秋の奈良:9「唐招提寺」Ⅱ [淡彩スケッチ]

 金堂東側より礼堂、経蔵方向を望む                  3号

 唐招提寺は、森の中にひっそりとした様子で配置された実に素晴らしい伽藍で、描きたいポイントが多すぎて困りました。結果として、絵の出来、不出来よりも、数を優先することとなりました。絵の中に人の姿が見えないように、本当に、紅葉散る、風情あふれた静かな境内でした。

 奈良シリーズが延々と続いております。もったいぶっているようで、申し訳なく思っています。 写真のようにズラッと並べて、一気に掲載したいところなのですが、描きためた在庫には限りがある関係で、ブログアップが日課となった今は、このような1点形式での紹介となってしまいます。ご理解いただきますようにお願いします。 言い訳が長くなってしまいました。

 (雑感) ブログを始めて5ヶ月が過ぎました。多くの方に支えられて、今日まで来ることが出来たと思っています。ありがとうございます。初めて、「nice」、というものを頂いたときは、天にも昇る気持ちがしたものです。お付き合いの範囲が広がるごとに、写真、鉄道マニアの方が多いことに気づきました。私は、当初、絵の同好の士を捜し求める目的もあったのですが、意外と、絵を中心としたブログを持っておられる方が見つからない。一方で、takagakiさんや、トータンさんのように、実は絵に対して素晴らしい才能を持っておられながら、表には出しておられない方の存在を知ることも出来ました。「天は二物を与えず」といいますが、皆さん、多芸多才で、自身の「身の程知らず」を痛切に感じている次第です。

 enosanは、ある日のコメントで「美辞麗句よりも忌憚のない意見のほうが嬉しい」旨のご意見を頂きました。心に響きました。

 私は、己の才能の有無すら自覚することなく、ただ、絵が好きで描き続けてきたわけですが、今頃になって、ようやく、周りが少しずつ見えてきたような気がしています。「井の中の蛙大海を知らず」の先人の言葉が、身に沁みてきている昨今です。 未熟者ではありますが、皆様の忌憚のないコメントを期待しております。頂いたコメント、檄を糧に、出来る限りの精進を重ねて行きたいと考えています。引き続きよろしくお付き合いくださいますようにお願いします。

 

 

 

 

 

 


晩秋の奈良:8「唐招提寺」Ⅰ [淡彩スケッチ]

 国宝・唐招提寺金堂                          はがき大

 759年に唐の名僧「鑑真和上」が開いた律宗総本山。 前1間の吹き放し、エンタシスの柱などを特徴とする天平建築。

 薬師寺から北へ向かって途中立ち止まりながら歩くと、やがて唐招提寺の森が、こんもりと見えてきた。南大門をくぐると玉砂利の参道がのび、正面に鴟尾をのせた堂々とした姿の金堂があった。

 この古刹は、建造物5、彫刻6、工芸品1、が国宝に指定されている。

 現在は、西暦2000年に始まった「平成の大修復」の途上にある。

 金堂のあまりの美しさに、気分が高揚し、いろんなアングルから眺め鑑賞し、鉛筆、ペン、筆を走らせた。

 

  唐招提寺公式HPは、次をクリック。

   http://www.toshodaiji.jp/index.html

 

 

 

 

 

 

 


晩秋の奈良:7「唐招提寺への道」 [淡彩スケッチ]

  薬師寺、東院堂を出て、さらに境内を歩く。昭和59年に復元された中門を抜けると、昭和56年に復元された西塔、昭和51年に復元された金堂が伽藍を形成していた。朱色まだ鮮やかで、東塔の黒ずんだ姿は堂々とした歴史の重みを現していた。当時、講堂は老朽化による取り壊し、建設中で、金堂には重文・金銅薬師三尊像が安置されていた。お参りを済ませ、唐招提寺へと向かった。

 唐招提寺への道:1                   はがき大

 小春日和に中、周りの景色を楽しみながら歩く。

 唐招提寺への道:2                        はがき大

 途中小さな川に出会った、間違いなければ「秋篠川」だろうと思われた。

 順路は逆となるが、和辻哲郎・著「古寺巡礼」の中で、法華寺から佐保・佐紀路を通り、唐招提寺へ向かう途中の景色を、次のように表している。大正と平成とでは時代は違うが、この辺りの風景は、そんなに変わっているとは思われないので、次に抜粋を紹介する。

 「・・・法華時村を離れると道は昔の宮城のなかにはいる。奈良と郡山の間の佐保川の流域(昔の都)を幾分下に見渡せる小高い畑地である。遠く南の方には三輪山、多武の峯、吉野連山から金剛山へと続き、薄い霞のなかに畝傍山・香久山も浮いて見える。東には三笠山の連山と春日の森、西には小高い丘陵が重なった上に生駒山。それがみな優しい姿なりに堂々として聳えている。堂々としてはいても甘い哀愁をさそうようにしおらしい。ここになら住んでみようという気も起こるはずである。・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


晩秋の奈良:5「薬師寺」Ⅱ [淡彩スケッチ]

 私たちは(家内が同伴した)、近鉄橿原線「西ノ京駅」から北口の拝観受付から入り、左側(東側)、回廊の外側を歩いた。それが順路かどうかは分からない。小生には、何でもそうなのだが、受付でいただく案内図といったものにしたがって見る、歩くということに無頓着な傾向がある。直感的に雰囲気の良い方へ向かって歩く、偏屈といえばそうなのかもしれないが、思わぬ発見があることも事実だ。その代わり、大切なものを見落とすこともよくある。今回は、良い方に当たった。東塔と並ぶ、本寺の国宝「東院堂」が、回廊の外側に静かに鎮座していた。

 国宝・東院堂                  はがき大

 絵には見えないが、お堂の前の通路の反対側に、平成時代に入って造られた朱色の回廊が平行して建っている。 この「東院堂」は、1285年に再建されたもので薬師寺では、建造物としては二つある国宝の一つとなっている。

 この絵は、楽譜ペンで輪郭を描き、軽く色をのせた。楽譜ペンは、水性のため水彩絵の具と合わさると両方が滲んでしまうが、その滲みを活かせないかと試みた。楽譜ペンは、ペン先が合成樹脂(プラスチック?)で出来ており、滑らかに描け、水彩絵の具と滲むと色がグレーがかり色を抑える効果があり、時々使用している。今回のシリーズもこのペンを使った絵が多い。

 次回は、東院堂に安置される「聖観音菩薩立像」について掲載の予定。

 

 

 

 

 


晩秋の奈良:3「秋篠寺」Ⅲ [淡彩スケッチ]

  

 境内を散策                            はがき大

 秋篠寺の境内は、本堂と他、2、3のお堂が建つのみで、多くは雑木林が占め、伽藍の跡はその礎石を留めるのみである。折りしも紅葉も終わりを迎えつつあり、落ち葉がそこかしこに見え始めていた。雑木林の土は苔で覆われ、その上に落ち葉が点在する様子は、息をのむ美しさだった。その様子を紹介できないのは残念だが、皆様の目でしっかりご覧になることをお勧めする。

 俳  「ひっそりと落ち葉礎石におりたちぬ」  よしあき


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